4月 01, 2017

一杯の追憶 (第一話) 旧・国立競技場界隈

 あの時代が現在に於いてバブルと呼ばれるのは、その後に弾けるという結果を見たからであって、当時は誰もが「空前の好景気」と呼んでいた。そしてバブル崩壊以降は、調子が良いものに対して、すぐに”バブル”という冠詞を付けるのが、マスコミに於いては当たり前になってしまう。まるで、弾ける事を誰よりも早く口にする事が、自己の優秀さの証明でもあるかの様に。

 1986、7年頃。
 そんな空前の好景気に湧いていたらしい東京に、僕は然したる実感も無く北海道から移り住んだ。就職ではなく、アルバイトの為である。
 当時の僕は、正社員として就職する気には全くなれず、アルバイトで適当に金が貯まったら何処かへ旅行にでも行こうというぐらいしか考えていなかった。いわゆるフリーター、又はプータローと呼ばれた類の人間であった。そんな考えでいても普通に稼いで生活できたという事が、僕にとっての "バブル” の恩恵に他ならないのだろう。
 初めて勤めた会社が、新宿御苑のすぐ裏手に当たる、渋谷区千駄ヶ谷の寂しい住宅街にある小さなマンションの一室に入居していて、他の部署に移るまでの数か月間を、そこと世田谷区経堂の寂れた自宅アパートとを往復しながら過ごす事になった。
 その会社の社長に、ある夏の日の残業の後、
「お前にちょっと旨いもん食わしてやるよ」
と声を掛けられた。
 その頃の僕は、生活費の中で食費が掛かり過ぎる事を嫌い、昼食は勿論、ほぼ毎日残業がある会社だった為、夕食の分の弁当も作って会社に持って来ていた。それに対して当時30代だった若い社長は意識が常に外を向いていて、たかが外食一つを取っても外的刺激として自己分析しなければ気が済まない性格だったので、誰かその辺にいる人間と、近所にある評判のものを食べに行ってみたかったのだろう。
 その時は、会社から少し歩いた所にある国立競技場の前まで連れ出された。
 当時、そこには数軒の屋台が並んでいて、そのうちの1番端にあったラーメン屋が、目的の旨いものを出す店らしかった。右端だったか左端だったかは、もう憶えていないが、屋台の庇に周囲の灯りが遮られた薄暗闇の中で暫く待ち、そして受け取ったラーメンをひと口すすった瞬間、みるみるうちに口内に涎が溢れ、肩から背中まで熱が伝わって行く感覚は、それまで味わったことが無いほど鮮烈だった。その時、生まれて初めて、目の前にある食べものに心を奪われ、心底美味しいと思う事が出来た気がしたのである。
 初めて食べたその屋台のラーメンは、全く繊細とは言えない、どちらかと言えばガサツで、油っぽい上にしょっぱく、しかしその全てが絶対に欠けてはならないもの、それだけで完成された集合体であった。
 目の前で行われている作業は、丼に濃い茶色のタレを入れて濁ったスープを注ぎ、そこに茹でた麵を浸して具材を幾つか盛り付けるだけである。しかし、そのひとつひとつがここに運ばれてくるまでに費やされた手間と時間が、作り手ではない者には想像もつかない質と量である事を、おぼろげながら思った。それだからこそ、その場で簡単に組み合わせるだけで完璧な集合体として完成させる事ができるのである。
 それほど鮮烈な印象を残したラーメンであっても、時の経過と共に具体的に記憶に残ったものは、味が濃くてギトギトとしたスープと、箸で持ち上げようとすればすぐ崩れてしまう様な、頼りないほど柔らかくて旨いチャーシューぐらいになってしまったが、僕が今でもその様な雰囲気を持ったラーメンに食指が動くのは、この時食べたものの印象がそれ程強いものだった為であるのは間違い無い。
 そして、その時社長が言った言葉も印象に残っている。
 曰く、食べ物屋を選ぶ時は、一軒だけポツンとある店ではなく、同業者が何軒か並んでいる場所に行け、と。
 つまり、特定の範囲内に一軒しか無い店には、選択の余地の無い近所の人々が集まって来てそこそこの商売にはなるだろうが、そういう店は大抵の場合それにあぐらをかいて切磋琢磨する事を止めてしまうから、遠方からわざわざ出掛けて行ってまで食べる程のものは出て来る訳が無い、という理屈である。
 それはその後、食べ物屋選びだけではなく、様々な選択に於いて基準の一つとなる要素があった事は確かだ。競争があってこそ、品質やコストパフォーマンスの向上が為され、それが利用者にも還元されるのである。

Illustration by W.D.Libaston All Rights Reserved. その屋台街も、ラーメン屋だけではなかったと記憶しているが、全体的にかなり賑わっていて、商う物が違っても店同士の競争は当然あったであろう。他の店で食事をする機会は無かったが、あの中で客が入っていない店があれば、逆の意味で目立っていたに違いない。しかしその中にあっても、特にそのラーメン屋が一番賑わっていたという印象がある。
 雑多に置かれた椅子に座り、一人で、或いは連れとしゃべりながら、この広く薄暗い空間を共有する人々。その中に自分が存在した夏の夜が確かにあったという事実が、今でも宝物の様に自分の心の中に仕舞われている。


 それから暫くして、またその社長に誘われて同じ界隈に出掛けた時に入ったのが、ホープ軒であった。この店もまた屋台の店同様、長く僕の記憶に残る事になる。
 年中無休の24時間営業で、店舗はビルの1〜2階を締め、1階は立ち食い、グループ客用の2階席からの注文は、1階の厨房から専用の小さなエレベータで上げられるという構造。
 駅前の立ち食い蕎麦よろしく、不味くはないが、そう特別なものも出て来そうにないというイメージに反して、背脂の浮いたスープの表面を覆う多量のラードが、中から引っ張りだした太い麺に絡んでその表面を艶やかに染め、好きなだけ自分で盛ったネギと共に、それを口の中に啜り込むという、非常に根源的で魅惑的な食べ物であった。
 ただし、個性が強い分、それに馴染めないという人も多くいるもので、たまに友人を連れて行っても、気に入ったという反応を見る事は皆無だった。ラーメンそのものも勿論だが、店の雰囲気や周辺の環境に至るまで、許せるところ、許せないところや、その限度は人それぞれ、実に様々である。

 余談だが、千駄ヶ谷ホープ軒に関しては、今に至っても解けていない疑問がある。
 当時、ホープ軒に一緒に行った友人の一人は、千駄ヶ谷のホープ軒は、実は本当のホープ軒ではないと言っていて、数日後に見せてくれた当時のホープ軒のチラシにも、千駄ヶ谷店の名前が載っていなかったのである。当時、僕はそれを見て、あんなに旨いラーメンを作れるのなら別に名前など関係無く、独自の店名を名乗れば良いのに、と思ったものだった。
 しかし、今ではホープ軒と言えば千駄ヶ谷店を真っ先に挙げる人も多く、その時の事を思い出す度に、あれは何だったのだろう?という気持ちが頭を持ち上げるのである。
 ホープ軒に関してはもう一軒、阿佐ヶ谷店も思い出に残っている店であるが、それはまた後の機会に譲ろう。

 最初に食べた屋台のラーメンと、次の千駄ヶ谷ホープ軒のラーメン。どちらもシンプルだが人を惹き付ける力に溢れていて、思い出す度に食欲を掻き立てられるものがあった。
 しかし、暫く時が流れてから近くに行く用事があり、国立競技場前の屋台街があったと記憶していた場所に立ち寄ってみたのだが、屋台街自体を見つける事は出来なかった。
 いや、僕の記憶が曖昧で場所を勘違いしていたか、或いは運悪く休業日だった可能性もある。ただ、それからまたかなり後になって友人から聞いたところに依ると、当時に於いて既に衛生上の理由から、屋台の営業は継続が困難な世情ではあったらしい。
 千駄ヶ谷ホープ軒の方は、この店も元は屋台だったと聞くが、ファンが途切れる事は無く、現在に於いても同地で変わらず繁盛している様だ。
 先年も夜行バスで東京に行った際、新宿に到着後そのまま千駄ヶ谷に移動してホープ軒を訪ね、午前5時の早朝から立ち食いラーメンを、思い出に浸りながら存分に楽しんで来たのだが、あの屋台で食べる機会は、結果的にあの夏の夜一度限りになってしまった。
 あれから30年にも及ぶ時が過ぎ、国立競技場は解体され、周囲の景色も随分変化してしまった。あの当時勤めていた会社も既に無く、僕自身の味の嗜好も、恐らく相当に変わってしまったであろう。
 今、あの時と同じラーメンを食べて同じ様に美味しいと思えるかどうかは分からないが、もう一度あの味に巡り会ってみたいとたまに思うことがある。もしかしたら今はどこかで立派な店舗を構えて、ホープ軒と同じ様に大いに繁盛しているのかも知れない。それならば、再会も全くあり得ない事ではないだろう。
 ともあれ今となっては、僕にとっての原点とも言うべきあの夏の夜の一杯は、最早訪ね得ようも無い忘却の底に埋もれてしまったのである。

                                    第一話・完


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