4月 10, 2017

一杯の追憶 (第三話) 中村橋周辺

 池袋から西武池袋線の各停に乗り、練馬駅を過ぎて目白通りの高架を潜ると、間も無く中村橋駅に停車するーーー。
 こう書くと奇異の念を抱く人もいるかも知れないが、僕が西武池袋線沿線に住んでいた頃は、練馬区中村北にあるこの立体交差は上下が逆だったのである。
 2001年3月にこの入れ替え工事が行われた時には、僕は既に品川区に引っ越していたが、幹線道路の通行を迂回路に回しておき、鉄道の終電後の工事で場所をそっくり入れ替えて、どちらも次の朝から運用を再開させるという、長期間に渡る綿密な準備の末に行われたこの手品の様な一夜の大工事は、当日のニュースで大きく報道され、工事の完結を見る事無く引っ越してしまった僕も、その様子を垣間見る事が出来た。
 僕がこの辺りに住み始めた当初、西武池袋線はまだ高架上ではなく地上を走っていて、駅の東側を通る中杉通りにあった踏切りは、朝夕の通過電車の多い時間帯は上下線合わせて7本通過しないと開かなかった。そして大抵の場合、7本目は無人の回送電車だったので、余計にイライラしたものである。
 その後数年して、線路を高架にする為の工事が始まり、駅は囲いで覆われて足場が組まれ、そこかしこに工事用の資材が並べられた。
 そして先ず上り線が高架上を走る様になり、それだけで踏切が開かない時間は激減した。作業場や工事現場の様な雰囲気が好きな僕は当時、『この状態で工事が終わったら面白いな』などと思ったものである。
 やがて駅の工事は完了し、中村橋駅は上下線とも高架上を電車が走るようになった。
 駅は高架になる前から上下線のホームが別々で、双方を結ぶ地下道や跨線橋の類は無かった。その為、中杉通りの北の終点近くに住んでいた僕は、下り線で池袋から帰って来て改札を出ると、工事前は電車の通過が済むまで踏切で待たなくてはならなかったのだが、工事後はそのまま高架を潜って行ける様になった。
 しかし僕にとって何よりも嬉しかったのは、高架上を電車が動き出す時の重く規則正しい振動音を、地元の駅でいつでも聞ける様になったという事であった。
 
 ところで、「中杉通り」という名称は、僕は中村橋と杉並を結んでいるから付けられたものだとずっと思っていたのだが、実は中野と杉並を結んでいる為というのがどうやら定説らしい。当時の僕は、阿佐ヶ谷以南にも中杉通りが続いている事など、全く考えが及ばなかったのである。
 それはともかく、この通りは阿佐ヶ谷駅から西武新宿線の鷺ノ宮駅を経て、中村橋駅の手前で千川通りと交差するまでは道幅が広く、交通量の多い道路なのだが、その先からは一方通行になって急に道幅が狭まり、駅の北側に出ると、地元の商店街へと風景が一変してしまう。そして、その賑わいが途絶え、少し寂しさを覚える様な界隈を通り過ぎると、突然、だだっ広い目白通りにぶつかり、そこが終点となる。
 その中杉通りの中村橋駅と阿佐ヶ谷駅の間の一本道を路線バスが通っていて、よくそれに乗って阿佐ヶ谷まで行き、ホープ軒でラーメンを食べて帰って来たものである。
 或いは、当時勤めていた会社があった江東区の門前仲町から、総武線乗り入れの車両を選んで東西線に乗り、阿佐ヶ谷で一杯食べてからバスで中村橋まで帰るという、かなり長距離の寄り道をする事もたまにあった。
 阿佐ヶ谷のホープ軒を知ったのは、第一話で書いた通り、千駄ヶ谷のホープ軒の話をした時に友人が見せてくれた当時のチラシでだったが、なるほど阿佐ヶ谷と千駄ヶ谷ではラーメンの雰囲気が全く違っていて、阿佐ヶ谷の方はスタンダードで食べやすい、昔ながらの中華そばという感じだったと記憶している。
 店内には、日本の懐メロかグループサウンズ風の音楽が流れ、幾分小ぶりの丼から、シンプルでいて、しかし十分にコクのある豚骨醤油スープが絡んだ麺を啜り上げて食べていた記憶があるのだが、一昨年、東京に行く機会があって久々に訪ねた時は、ラーメンそのものだけでなく、店全体の印象が当時の記憶とは全く違っていた。
 阿佐ヶ谷にはホープ軒以外の目的で行った事は無いので、店は間違い様が無いのだが、これだけ印象が違うというのはどういう事だろうか。単に僕の記憶が、その後の様々な体験によって上書きされてしまったという事なのだろうか。
 自分ではしっかりと記憶していると思っていても、人間の記憶とはかなりあてにならないものであるという事を、改めて思い知らされたものである。

 その中村橋と阿佐ヶ谷を結ぶバスの、中村橋側の終点の辺りに昔、小さなラーメン屋があった。87〜8年ぐらいの事で、名前はもう憶えていない。
 初めてその店に入ったのは、たまには地元の町で一日のんびりと過ごしてみようと考えたある休日だった。
 翌週の為の食料の買い出しを西友で済ませて千川通りに出たところで、ちょうど通りの反対側にある、その店の暖簾が目に留まったのである。見るからに地元の食堂然とした外観が、昼からビールでも飲んでラーメンを啜ろうと思っていた僕の気分にぴったり合っている様な気がした。
 短い暖簾を潜り、古い引き戸を開けて中に入ると、外観から抱くイメージ通り、昔ながらの食堂そのものといった雰囲気の店内にはテーブルがいくつか並べられ、老夫婦が協力し合って調理と客の案内をこなしていた。
 地味で古臭いながらも、良く整頓されていて無駄なものが無く、簡素で落ち着いた雰囲気が、店を切り盛りする老夫婦をそのまま写した様な佇まいである。
 数組の先客がそれぞれのテーブルを占める中、一人客の僕も店主のおじいさんの案内に従い、空いているテーブル席に着いた。
 メニューもまた単純明快。ラーメンと上ラーメン、加えて、それぞれの大盛りだけである。
 そして、メニューを見て僕が発した一言が良くなかった。
「ビールは無いんですか?」
「そんなもん無いよ」
 おじいさんの反応には、ビールを飲みながらラーメンを食べるという行為に対するあからさまな軽侮の念があり、鼻で笑うようなニュアンスを感じ取った僕は面喰ってしまった。
 取り敢えず「上ラーメンの大盛り」を注文して待つ間も、『休日に地元で昼から一杯ひっかけるのは気分が良いだろうと思って入ったのに、どうして、よりによってこんなへんつくなおやじの店を選んでしまったのだろう』という後悔の念でいっぱいだった。
 暫く待った後、今度はおばあちゃんがお盆に乗せて運んできたラーメンを見て、驚いた。白い丼に張られた幾分黄色味掛かった透明なスープに、肉団子と白ネギが浮かべられたその簡素なラーメンは、今までに見た事もない様な淡い色彩と、香ばしく甘い匂いに包まれていたのである。
 そして、その良い匂いを発している綺麗なスープをレンゲで啜り、麺が唇を通過していく心地よい感触を味わっているうちに、ビールを飲みながらこのラーメンを食べようとしていた自分が甚だ愚かしく思えてきた。こんな繊細なものを味わうのに、アルコールの刺激と酔いは邪魔でしかない。
 僕がそれまで好んで食べていたラーメンは、こってりしていてボリュームがあり、何よりもチャーシューが旨いのが条件だった。それほどラーメンばかりを食べ歩いていたわけではないが、ラーメンを食べるならチャーシューが旨くて腹いっぱいになるのが良いという様な、偏った嗜好を持っていたのである。
 しかし、目の前にあるラーメンは、紛れもなく僕の好みとは真逆の代物で、量は大盛りでそこそこあるが、透き通ったスープに、チャーシューではなく肉団子が乗っている。
 最初は戸惑ったが、一口啜ってみると麺を掬う箸が止まらなくなり、見た目でがっかりさせられた肉団子も、涎が口から溢れ出てしまうぐらい旨味に溢れていたのである。
 スープにはおそらく鶏ガラと野菜、煮干しなどが使われ、濁りを出さない様に丹念に炊かれていたと思われる。少し縮れた細い麺に絡んで口の中に入って来る、その透明な液体を舌の上に留めて味わい、噛み砕いた麺と共に飲み下す時の心地良さは、このひと時は他の事に捕らわれず、一心に味わう事を要求している様に思えた。

Illustration by W.D.Libaston All Rights Reserved. 感動のひと時が静かに終わりを告げ、その余韻に暫く浸った後で、その店に漂う雰囲気にすっかり感化された様にゆっくりと支払いを済ませ、静かに引き戸を開け、僕は千川通りの明るい歩道に戻った。
 この時の事は今でも僕の心に強い印象を残していて、透き通った端正なラーメンに出会うと必ず、この店のラーメンが頭に浮かんで来る。
 別に、比べてどちらが優れているかという事ではない。おそらく、かなり美化されているであろう僕の記憶の中の一杯と、現実のそれを比べる事など何の意味もありはしないのだが、ただ一瞬だけ、この店のラーメンを思い出し、懐かしい想いに触れたくなるのである。
 
 この店にはその後数回行き、毎回「上ラーメンの大盛り」を食べていたが、暫くすると、店の前を通り掛かっても開いていない事が多くなっていった。
 その当時の僕の自宅は、中杉通りの終点である目白通りとの交差点を真っ直ぐに抜け、その奥に続く八百屋と魚屋と酒屋だけの小さな商店街の先にあるアパートの一室だった。そこから目白通りまで戻った所の角に建っているマンションの地下に、当時たまに顔を出していたShimaという小さなスナックがあり、その店の常連にラーメン好きの人がいて、そのラーメン屋の事を聞いてみた事がある。
 「あの店は、昼時は満席になるくらい人気があるから、心配しなくても無くなる事はないよ」
と、その人に言われて安心していたのだが、そのまま店が開いているのを見る事は無く、いつの間にかそこにラーメン屋があったという痕跡さえも消え、年月が経つと共に、僕の頭の中からも確たる記憶が失われてしまった。
 僕は、何度も通った店でも気軽に店の人と会話を交わす様な社交的な性格では無かったので、あの老夫婦にどんな事情があったのかは、遂に知る事が出来なかった。おそらく、歳を取ったので区切りをつけたのだとは思うが、これが最後と分かって食べる一杯を味わえなかったのが、今でも心残りである。

 中村橋での生活は、ちょうど10年間に及んだ。その前に1年ほど、隣の富士見台にも住んでいたので、練馬区内で11年以上も暮らした事になる訳だが、その間、西武池袋線は高架になり、地下鉄が乗り入れ、富士見台にいた頃に住んでいたアパートのすぐ近くに練馬高野台駅が出来た。
 中村橋を去ってから20年以上の時が過ぎた一昨年、千駄ヶ谷と阿佐ヶ谷のホープ軒で続けてラーメンを食べた後、あの頃と同じ様に中村橋行きのバスに乗り、懐かしい街を訪ねてみた。
 中村橋に降り立つと、まず周囲の街並みの変化に驚かされた。
 高架下に綺麗なショッピングモールができ、当時は千川通りから三井住友銀行の手前の路地を入って行っていた西友が、駅と直結している。千川通り沿いでわずかに記憶に残っていたモスバーガーも今は無く、この付近で全く変わっていないと感じたのは、角の蕎麦屋と、まだ富士見台にいた頃に痛ましい事件のあった交番ぐらいであった。
 中村橋商店街に入る前に、千川通りを西に歩いて富士見台に行ってみた。こちらも中村橋同様、高架下が新しい商業施設になり、駅前はかなり様変わりしていたが、石神井方面に向かって商店街を歩いていくと、以前とそれ程変わっていない事に気付かされた。
 途中、「味の横綱」という、僕が住んでいた頃はまだ出来て間もなかった店が、見事に年季の入った町の中華食堂になっていた事に、懐かしさと共に堪らない喜びを感じ、入ってみた。そこで久しぶりにタンメンを食べながら店主と少しだけ当時の話をし、その後、中村橋に戻ってのんびりと商店街を散策して、真ん中辺りにある居酒屋で、また懐かしさに浸りながら夕食を摂った。
 帰路は、西武池袋線の上り電車で池袋に向かう。
 電車が動き出して間も無く、立体交差で目白通りが上を通っていた頃、散歩中に豊島園のフライングパイレーツが揺れているのが遠く眺められた事を思い出し、電車の窓から覗いてみたのだが、既に日はだいぶ傾き、過ぎし日の懐かしい景色をこの目に収める事は叶わなかったのである。

                         第三話・完

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4月 04, 2017

一杯の追憶 (第二話) 北海道・旭川にて

 僕は、生まれてから高校3年までの18年間を、東北地方の田舎町で過ごした。自宅の隣の家1軒隔てた先から、1本の川を経て遥か山際までずっと水田が続く、典型的な農村である。
 家族と共に過ごした年月の中で、特に食事に於いて楽しいと思った記憶は、ほぼ無い。取りたてて嫌な事が無く済んだというのが相対的に良かった事であり、今思い返しても "楽しいことは無かった" という感想しかない。
 その理由のほとんどは、僕が食べるのが遅く、その為、父親にしょっちゅう怒られていた事にある。
 食べるのが遅くなる原因は、当時、僕自身も明確には気付いていなかったし、親にしても、単に僕がボケっとしているせいだと思っていただろう。結局、自分がなぜ食べるのが遅いのかという事について、具体的な原因に気付いたのは、現在から見てそれほど昔の事ではない。
 まず、先に自覚したのは、知覚過敏である。
 当時はこの事を、親も含めて他人に話した事は無かったが、リンゴやトマト、長ネギなどをまともに噛むのが辛かった。辛かったというより、出来なかったと言う方が正確である。
 トマトのヘタに近い黄緑色の部分に歯が入る様や、ミカンやレモンなどの粒々が弾ける様など、想像するだけで身震いがしたし、長ネギは火が通って柔らかくなっていても、まともに噛むのは苦痛であった。それらをどうやって飲み込める状態にするかといえば、表面部分を浅く噛めるだけ噛んだら、後は口内の天井に舌で押し付けて、懸命に潰すしかないのである。
 もっと酷いのは、歯磨きの後などで口をゆすぐ際、気泡が口内に当たる感触が気持ち悪いので、水を口に含むときには出来るだけ口をすぼめて空気が入らないようにしていたものである。
 これらの内のいくつかは、年月が経つと共に少しづつ克服出来たが、ほとんどは現在に至ってもまだ、消しようの無い嫌悪感が付きまとっている。
 そしてもう一つが、口の中に複数の食べ物を一緒に入れられないという事であった。つまり、一つのものを口に入れたら、それを嚙み砕いて完全に飲み込むまで、次の食べ物を口に入れられないという事であり、その結果、当然食べるのが遅くなるのである。
 自分自身では決してのんびり食べているつもりは無く、厳しい父親が怒り出さないうちにさっさと食べ終えてしまいたいのに、知覚過敏によって口に入れたものが上手く噛めず、その為に次のものがなかなか口に入れられない。終いには、急ごうとすればするほど緊張により唾液が出なくなり、口の中が乾いて余計食べるのが遅くなるという悪循環。
 しかも、自分が食べるのが遅いという事は言われて理解はしていても、その原因が自分の性質にあることなど、当時は全く分からず、それを直す手立ても思いつかなかった。
 この為、小さい頃の家族との食事の記憶は、僕にとってかなりの部分、苦痛と嫌悪感で塗り潰されているのである。
 しかしある日、そんな僕の閉塞的な状況に一筋の光が差し込んで来た。
 その日の食卓に出されたのは、出前で取ったうな丼。この、鰻の蒲焼きがご飯の上に乗せられた食べ物が、僕にとっては正に救世主だったのである。
 それは、ご飯とおかずを一緒に口の中に入れる事、一緒に噛んで味わう事の心地良さを僕に教えてくれた。その結果、僕はその時の食事に於いて見事に父親より早く食べ終えて驚かせたばかりではなく、それ以降の食事に於いても、僕の食べるスピードは他人のそれと比べて特に遅くはなくなったのである。
 このうな丼の記憶が、幼い頃の家族との食事に於いて、僕が楽しいと感じた数少ないものの中の一つであり、恐らく一番のものである。

 そんな時期に読んでいた漫画雑誌に、かなりの長期間、ラーメンをテーマにした漫画が連載されていて、僕にとってはそれが食に対して興味を持つ端緒になった気がする。その漫画は、ラーメンのスープや具材の作り方、麺打ちの工程などをかなりつぶさに描いていて、それによって僕はラーメンという食べ物を知ったと言っても過言ではない。
 しかしその反面、この漫画によって、ラーメンとはこういう物という固定観念を植え付けられる結果ともなってしまった。
 例えば、その漫画ではスープの出汁を、鶏ガラと野菜を煮込んで取っていたので、後に豚骨ラーメンというものを知った時、スープの出汁を豚骨から取るのは、九州地方の特定のラーメンだけだと思ってしまったのである。
 しかし、その漫画が僕にとって最も重要だった点は、美味しそうな匂いが本当に誌面から漂い出て来る様な食材や調理風景の描写によって僕の想像力が搔き立てられ、夕食を腹に詰め込む為の空腹感をもたらしてくれた事である。
 豚骨ラーメンが一般に浸透し、インスタントラーメンまで発売され出した頃から現在に至るまで、醤油、塩、味噌、豚骨という分類がなされている。当時は何気なくそれを受け入れていたのだが、後になって考えてみると、以前からある醤油、塩、味噌は全てカエシの分類であるのに対し、豚骨というのは出汁の分類である。知識のおぼつかない当時の自分には、豚骨ラーメンの味付けは塩なのか何なのか、いくら頭を働かせても解けない疑問であった。
 九州の白濁した豚骨ラーメンも、その出汁の色の濃さの為にカエシの醤油の色がはっきりと出ないだけで、基本は醬油ラーメンであることが分かったのは、かなり時が経ってからである。
 それと同じ頃、ラーメンは鶏ガラスープだけではなく、豚骨で取らたものや、両方を同時に用いたものもかなり一般的で、自分自身もその時点で既に色々な場所で食べていたという事も知った。
 例えば、札幌ラーメン。
 僕は高校を卒業して北海道の大学に進学すると同時に、親元を離れて旭川で生活を始めた。大学受験の為に初めて青函連絡船で北海道に渡った時、札幌でラーメン横丁に立ち寄り、ラーメン屋を3軒ハシゴした。
 店は自分で買った観光ガイドブックで探したが、その店を選んだ根拠については全く憶えていない。札幌ラーメンらしい味噌ラーメンの店が2軒と、何故か醤油ラーメンの店が1軒。しかも1軒はラーメン横丁から外れていたと記憶している。
 そこで食べたラーメンの味は、正直に言うと今は全く覚えていない。35年も前の話である。ただ、当時はまだ、ラーメンのスープは全て鶏ガラ出汁だと思っていた時期なので、実は豚骨から出汁が取られていたそのスープは、それまで食べたラーメンよりもかなりコクが感じられたという事と、そのスープの表面にはかなり油が浮いていて、油膜の様になっていたという事が印象に残っている。
 しかし、当時の僕の記憶のほとんどは、北海道の冬が自分が生まれ育った東北と比べても段違いに寒く、特に風が全く違って、まるで刺す様に行く手を阻んできた事と、薄暗い店の壁に、誰のものとも判別がつかないくらいにくすんだサイン色紙がたくさん貼られていたという事ぐらいである。

 さて、僕の北海道での生活の拠点は旭川であった。
 旭川でラーメンと言えば、当然、旭川ラーメンである、と言いたいところだが、僕が旭川で暮らしていた80年代初頭から中頃に掛けての間に「旭川ラーメン」という単語を聞いた事はただの一度も無かった。
 もちろん旭川にいる間、気に入ったラーメン屋はあって、そこで幾度となくラーメンを食べたのだが、それが「旭川ラーメン」という風にジャンル分けされたものだとは言われていなかったし、僕の周りでそんな話題が出た記憶は一度も無い。ただ、
 「北海道のラーメンは札幌の味噌が有名だけど、函館は塩で、旭川は醤油が主流なんだよ」
と教えてくれた人はいた。
 しかし結局、「旭川ラーメン」という呼称を初めて聞いたのは、その後、東京に移ってかなり時が経ってからである。恐らく、品川駅近くに「品達」が出来た時に、当時、旭川ラーメンの店が入っていて、そこで初めて名前を知ったと記憶している。
 もっとも、その当時は札幌ラーメンと博多ラーメン以外のいわゆる「ご当地ラーメン」は、まだまだ名前が知れ渡っていなかったので、旭川でも特に地元のラーメンに名前を付けて売り出そうとまでは、まだ考えていなかったのかも知れない。他の多くのご当地ラーメンも、地元の人からは、いつまでも「中華そば」と呼ばれていたりするものである。
 初めて実際に旭川ラーメンを食べたのは、更に時が経って名古屋に住むようになってから、千種区にある梅光軒という店に於いてであるが、旭川にいた頃のお気に入りの店よりも、かなり洗練されている印象を受けた。
 
 ここで、その旭川でのお気に入りの店について書いて置こうと思うのだが、店名がどうしても思い出せない。
 場所の記憶も定かではないが、日本初の歩行者天国と言われる買物公園の割と大きな交差点から、繁華街の6丁目とは逆の8丁目方向に曲がった所にあり、すぐ近くのレコードと楽器を扱う店に行ったついでによく寄った記憶がある。
 古くこじんまりとした木造りの店内で、茶色く濁ったスープに浸った麺をズルズルと啜ったのはよく憶えている。そしてそれは、それまでに食べてきたラーメンよりも格段にコクと旨味の多い、当時の知識の乏しい僕には、それこそ「何とも言えない」としか言い様の無い美味しさに溢れたものだった。

Illustration by W.D.Libaston All Rights Reserved.
当時は、一緒に入った友人達との会話に夢中で、店の雰囲気やラーメンを仕上げる様子などには全く関心を持っていなかったが、配膳はいつも店にいたおばちゃんが一人でやっていたと思う。
 このおばちゃんについては、面白い逸話がある。
 と言っても、この類の話は後に様々な場所で聞くので、その話を実体験として僕に教えてくれた友人自身が、本当にその時、その店で体験したものかは、今となっては多分に怪しい。
 曰く、その店のおばちゃんが、友人が頼んだラーメンを運んで来た時、丼を持つ手の指が淵からスープに入っていたので、
 「おばちゃん、指入ってるよ」
と指摘すると、
 「大丈夫だよ、熱くないから」
と言ったという。また、食べていたらラーメンの中にハエが入っていたので、
 「おばちゃん、ハエ入ってるよ」
と指摘すると今度は、
 「大丈夫だよ、死んでるから」
と言ったというのである。
 どうだろうか。いかにも昭和的な笑い話で、テレビのバラエティー番組でもそっくりな話をネタとして聞いた事があるのだが、これは30年以上も前に語られた話である。もしかしたら、これは本当にその時あった出来事で、それが広まったのではないかという気がしないでもない。
 それはともかく、大学卒業以来、北海道には一度も足を踏み入れていないので、その店や旭川市街、また、当時住んでいた場所など、今はどうなっているのかは全く分からない。
 果たしてあの時食べていた旨いラーメンが、時を経た現在、「旭川ラーメン」として市民権を得たのだろうか。
 そして、あの店は今でも存在するのだろうか。更に、十分に熱いはずのスープに指を突っ込んでも平気で、今のご時世では笑えない冗談を言い放ったあのおばちゃんは、今でも達者にしているのだろうか。
 すぐに飛んで行って確かめてみたいという衝動に、今でもたまに駆られる事がある。

                                  第二話・完

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4月 01, 2017

一杯の追憶 (第一話) 旧・国立競技場界隈

 あの時代が現在に於いてバブルと呼ばれるのは、その後に弾けるという結果を見たからであって、当時は誰もが「空前の好景気」と呼んでいた。そしてバブル崩壊以降は、調子が良いものに対して、すぐに”バブル”という冠詞を付けるのが、マスコミに於いては当たり前になってしまう。まるで、弾ける事を誰よりも早く口にする事が、自己の優秀さの証明でもあるかの様に。

 1986、7年頃。
 そんな空前の好景気に湧いていたらしい東京に、僕は然したる実感も無く北海道から移り住んだ。就職ではなく、アルバイトの為である。
 当時の僕は、正社員として就職する気には全くなれず、アルバイトで適当に金が貯まったら何処かへ旅行にでも行こうというぐらいしか考えていなかった。いわゆるフリーター、又はプータローと呼ばれた類の人間であった。そんな考えでいても普通に稼いで生活できたという事が、僕にとっての "バブル” の恩恵に他ならないのだろう。
 初めて勤めた会社が、新宿御苑のすぐ裏手に当たる、渋谷区千駄ヶ谷の寂しい住宅街にある小さなマンションの一室に入居していて、他の部署に移るまでの数か月間を、そこと世田谷区経堂の寂れた自宅アパートとを往復しながら過ごす事になった。
 その会社の社長に、ある夏の日の残業の後、
「お前にちょっと旨いもん食わしてやるよ」
と声を掛けられた。
 その頃の僕は、生活費の中で食費が掛かり過ぎる事を嫌い、昼食は勿論、ほぼ毎日残業がある会社だった為、夕食の分の弁当も作って会社に持って来ていた。それに対して当時30代だった若い社長は意識が常に外を向いていて、たかが外食一つを取っても外的刺激として自己分析しなければ気が済まない性格だったので、誰かその辺にいる人間と、近所にある評判のものを食べに行ってみたかったのだろう。
 その時は、会社から少し歩いた所にある国立競技場の前まで連れ出された。
 当時、そこには数軒の屋台が並んでいて、そのうちの1番端にあったラーメン屋が、目的の旨いものを出す店らしかった。右端だったか左端だったかは、もう憶えていないが、屋台の庇に周囲の灯りが遮られた薄暗闇の中で暫く待ち、そして受け取ったラーメンをひと口すすった瞬間、みるみるうちに口内に涎が溢れ、肩から背中まで熱が伝わって行く感覚は、それまで味わったことが無いほど鮮烈だった。その時、生まれて初めて、目の前にある食べものに心を奪われ、心底美味しいと思う事が出来た気がしたのである。
 初めて食べたその屋台のラーメンは、全く繊細とは言えない、どちらかと言えばガサツで、油っぽい上にしょっぱく、しかしその全てが絶対に欠けてはならないもの、それだけで完成された集合体であった。
 目の前で行われている作業は、丼に濃い茶色のタレを入れて濁ったスープを注ぎ、そこに茹でた麵を浸して具材を幾つか盛り付けるだけである。しかし、そのひとつひとつがここに運ばれてくるまでに費やされた手間と時間が、作り手ではない者には想像もつかない質と量である事を、おぼろげながら思った。それだからこそ、その場で簡単に組み合わせるだけで完璧な集合体として完成させる事ができるのである。
 それほど鮮烈な印象を残したラーメンであっても、時の経過と共に具体的に記憶に残ったものは、味が濃くてギトギトとしたスープと、箸で持ち上げようとすればすぐ崩れてしまう様な、頼りないほど柔らかくて旨いチャーシューぐらいになってしまったが、僕が今でもその様な雰囲気を持ったラーメンに食指が動くのは、この時食べたものの印象がそれ程強いものだった為であるのは間違い無い。
 そして、その時社長が言った言葉も印象に残っている。
 曰く、食べ物屋を選ぶ時は、一軒だけポツンとある店ではなく、同業者が何軒か並んでいる場所に行け、と。
 つまり、特定の範囲内に一軒しか無い店には、選択の余地の無い近所の人々が集まって来てそこそこの商売にはなるだろうが、そういう店は大抵の場合それにあぐらをかいて切磋琢磨する事を止めてしまうから、遠方からわざわざ出掛けて行ってまで食べる程のものは出て来る訳が無い、という理屈である。
 それはその後、食べ物屋選びだけではなく、様々な選択に於いて基準の一つとなる要素があった事は確かだ。競争があってこそ、品質やコストパフォーマンスの向上が為され、それが利用者にも還元されるのである。

Illustration by W.D.Libaston All Rights Reserved. その屋台街も、ラーメン屋だけではなかったと記憶しているが、全体的にかなり賑わっていて、商う物が違っても店同士の競争は当然あったであろう。他の店で食事をする機会は無かったが、あの中で客が入っていない店があれば、逆の意味で目立っていたに違いない。しかしその中にあっても、特にそのラーメン屋が一番賑わっていたという印象がある。
 雑多に置かれた椅子に座り、一人で、或いは連れとしゃべりながら、この広く薄暗い空間を共有する人々。その中に自分が存在した夏の夜が確かにあったという事実が、今でも宝物の様に自分の心の中に仕舞われている。


 それから暫くして、またその社長に誘われて同じ界隈に出掛けた時に入ったのが、ホープ軒であった。この店もまた屋台の店同様、長く僕の記憶に残る事になる。
 年中無休の24時間営業で、店舗はビルの1〜2階を締め、1階は立ち食い、グループ客用の2階席からの注文は、1階の厨房から専用の小さなエレベータで上げられるという構造。
 駅前の立ち食い蕎麦よろしく、不味くはないが、そう特別なものも出て来そうにないというイメージに反して、背脂の浮いたスープの表面を覆う多量のラードが、中から引っ張りだした太い麺に絡んでその表面を艶やかに染め、好きなだけ自分で盛ったネギと共に、それを口の中に啜り込むという、非常に根源的で魅惑的な食べ物であった。
 ただし、個性が強い分、それに馴染めないという人も多くいるもので、たまに友人を連れて行っても、気に入ったという反応を見る事は皆無だった。ラーメンそのものも勿論だが、店の雰囲気や周辺の環境に至るまで、許せるところ、許せないところや、その限度は人それぞれ、実に様々である。

 余談だが、千駄ヶ谷ホープ軒に関しては、今に至っても解けていない疑問がある。
 当時、ホープ軒に一緒に行った友人の一人は、千駄ヶ谷のホープ軒は、実は本当のホープ軒ではないと言っていて、数日後に見せてくれた当時のホープ軒のチラシにも、千駄ヶ谷店の名前が載っていなかったのである。当時、僕はそれを見て、あんなに旨いラーメンを作れるのなら別に名前など関係無く、独自の店名を名乗れば良いのに、と思ったものだった。
 しかし、今ではホープ軒と言えば千駄ヶ谷店を真っ先に挙げる人も多く、その時の事を思い出す度に、あれは何だったのだろう?という気持ちが頭を持ち上げるのである。
 ホープ軒に関してはもう一軒、阿佐ヶ谷店も思い出に残っている店であるが、それはまた後の機会に譲ろう。

 最初に食べた屋台のラーメンと、次の千駄ヶ谷ホープ軒のラーメン。どちらもシンプルだが人を惹き付ける力に溢れていて、思い出す度に食欲を掻き立てられるものがあった。
 しかし、暫く時が流れてから近くに行く用事があり、国立競技場前の屋台街があったと記憶していた場所に立ち寄ってみたのだが、屋台街自体を見つける事は出来なかった。
 いや、僕の記憶が曖昧で場所を勘違いしていたか、或いは運悪く休業日だった可能性もある。ただ、それからまたかなり後になって友人から聞いたところに依ると、当時に於いて既に衛生上の理由から、屋台の営業は継続が困難な世情ではあったらしい。
 千駄ヶ谷ホープ軒の方は、この店も元は屋台だったと聞くが、ファンが途切れる事は無く、現在に於いても同地で変わらず繁盛している様だ。
 先年も夜行バスで東京に行った際、新宿に到着後そのまま千駄ヶ谷に移動してホープ軒を訪ね、午前5時の早朝から立ち食いラーメンを、思い出に浸りながら存分に楽しんで来たのだが、あの屋台で食べる機会は、結果的にあの夏の夜一度限りになってしまった。
 あれから30年にも及ぶ時が過ぎ、国立競技場は解体され、周囲の景色も随分変化してしまった。あの当時勤めていた会社も既に無く、僕自身の味の嗜好も、恐らく相当に変わってしまったであろう。
 今、あの時と同じラーメンを食べて同じ様に美味しいと思えるかどうかは分からないが、もう一度あの味に巡り会ってみたいとたまに思うことがある。もしかしたら今はどこかで立派な店舗を構えて、ホープ軒と同じ様に大いに繁盛しているのかも知れない。それならば、再会も全くあり得ない事ではないだろう。
 ともあれ今となっては、僕にとっての原点とも言うべきあの夏の夜の一杯は、最早訪ね得ようも無い忘却の底に埋もれてしまったのである。

                                    第一話・完


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